有限会社土屋石材 -余市町-
◆初代は秋田県生まれで大正年間に渡道

美園墓地近くの本社
余市町市街の西、美園町営墓地そばに本社がある石材店。後志管内では比較的長い歴史を持ち、代表取締役の土屋賢二さんは3代目にあたる。
創業者は、秋田県出身(明治30年代生まれ)の土屋長一さん。秋田県内の石材店で修業の後、大正年間に渡道、大正時代末ごろに現在の余市町沢町に住居を構えて石材業をはじめた。石材業があくまでもメインだったが、当時の余市はニシン漁全盛時代。家業の傍らに行っていた「掛けニシン」(身欠きニシンづくり)のほうが、はるかに高収入だったそうである。
長男で2代目の正一さん(大正9年生まれ)は、新潟県内の石材店で修業。それは5~6年のことだったが、その間に石材職人としての技術はもちろん、その間に鍛冶職人の技能も身につけた。こうして、石材加工に用いる鏨(のみ)や截頭(せっとう。ハンマーのこと)などの金属用具を自前で造ることができるうえ、大工仕事の技術までも身につけ、敗戦後の1945(昭和20)年、25歳の時に北海道へ戻ってくる。その後、50歳で亡くなった初代の跡を継ぎ、地域に密着した何でもこなす器用な石材職人として土屋石材を切り盛りしていったのである。北海道に戻って3年後の1948(昭和23)年には長男の賢二さんが誕生し、店も順調に推移したが、ニシン漁が陰りを見せ始めた1950(昭和25)年ころから、石材店のほうも徐々に経営が悪くなっていった。
◆傾斜地にも対応した丁寧な仕事が自慢
3代目で現代表の賢二さんは、そうした家業の経営事情もあり、高校を卒業後の1968(昭和43)年、あえて店を継がずに日軽金(日本軽金属株式会社)へ入社する。そして静岡県の同社蒲原工場で1年半ほど勤務の後、新たに設立された北海道の苫小牧工場へ転勤となり、5年ほど勤務したがオイルショックもあって退職。1973(昭和48)年、25歳の時に余市へ戻り、家業を手伝うようになった。それから10年後の1983(昭和58)年、正一さんが亡くなり、賢二さんが3代目として店を継いだのである。

苦労人だが明るく気さくな賢二さん
賢二さんは、余市に戻ってからのわずか10年で、父の正一さんから様々な技術を伝授される。その後、時代が変わり、正一さんから受け継いだ技術を生かす機会は減ったが、最も大切な職人の精神を賢二さんは片時も忘れない。
賢二さんは1991(平成3)年、積丹方面へ向かう国道229号沿い、町営梅川霊園のすぐ手前に梅川工場を新設した。さらに、1997(平成9)年には法人化するなど、手堅い経営で順調に業績を伸ばしている。
土屋石材の主な営業エリアは、余市町内7カ所にある町営墓地やお寺の墓所ほか、小樽・積丹など後志管内が中心である。
この地域の墓地は、海岸に面した傾斜地にあるのが大半。そういう場所に墓石を建立する場合は、コンクリートなどで土留めを施すなど、平坦地以上に労力がかかる。
また、潮風など長年の風化にも耐えられるよう、使用する原石もできるだけ硬いものを使っている。こうして信頼を得た、先代、先々代からの顧客が、現在も口コミで新しい顧客を呼び込んでくれている。お寺からの顧客紹介が多いのも、土屋石材の信頼度が高い現れだろう。
場所柄、棹石などの文字彫刻には、基本的に墨入れをすすめないのが土屋石材のやり方である。「塗料は2~3年経過するとところどころハゲ落ち見た目も悪くなります。そうすると何度も墨入れしなければならず、お客さんの負担もばかになりません。」と話す賢二さん。顧客は必ず現地(実際の墓地)へ案内し、既存のものを見てもらって納得ゆくまで打ち合わせをしている。駆け引きのない実直な人柄からか成約になるケースは多い。
(取材・執筆 本多)
|
◆土屋石材 会社データ 【本社・事務所】 【梅川工場】 【共通案内】 |
あわせて読みたい関連記事
タグ: いい店, 余市, 後志